父の死去について

いつもありがとうございます。

別に有名人や著名人でもないので公表する必要はないと思うのですが、ある日、お客さんから僕の父の死因について質問され、正直、あまり良い気分ではなかったものの、これからも同様の質問をされることや、同じように知りたい方もいると思うので、今回はその件について書きます。

なお香典などは既に葬儀を済ませているのでお気持ちだけ頂き、特別なお声がけも必要ありませんので、引き続きよろしくお願いします。

2025年2月3日(月)
節分だと思ってた肩透かしの日に、僕の父は亡くなりました。
1941年生まれで、享年83歳。
平均寿命を鑑みても、十分に大往生と言えると思います。

だから実家の近くで暮らす姉からその連絡をもらった時も、無機質にその現実が脳みそに入ってきて、不思議と涙も溢れませんでした。

死因は大動脈弁狭窄症というらしく、要するに心臓への血液が止まったような状態だったみたいです。

発見されたのは自宅の寝室で、眠るような姿で発見されたらしいです。

ただし発見されたのが2月3日の命日から、約2週間後だったんですよ。

つまり一緒に暮らしている母も、近くに暮らしている2人の姉たちも直ぐに異変に気づいてあげられなかったんですね。

そのために葬儀などが命日よりかなり遅れてしまい、今回は家族葬という小さなものを選んだんです。

このことで父の兄妹や僕にとって親戚に当たる人たちは怒っています。

理由はもちろん、監督不行き届きで、もっと早く気づいてあげれれば、父は助かったんじゃないかということ。

けれどその怒りを母や姉たちに向けるのはお門違いで、10代で実家を出て、それから約30年もろくに実家に帰らず、父のことを母や姉たちに任せっきりにしてた長男である僕の責任です。

だから父が亡くなった後の僕のこれからの人生は、その贖罪とします。

それに僕は奥さんや子どもも見せられなかったけれど、二人の姉たちのたくさんの子どもやひ孫も見せられて、父や母はそれを喜んで、自分の子どもが産まれた以上の喜びだったと思うんですね。

振り返ると中島家の長女である道代の初めての子ども、つまり父にとっては初孫である勇貴が産まれて、ずっと結婚に反対してて、姉や旦那さんとも言葉さえ交わさなかった父が、姉が勇貴を実家に連れてきた時に、直ぐに勇貴を抱っこしに行ったのを見て、僕も子どもながらにすごい感動したというか、雪解けの瞬間を目の当たりにして、人はいつでも変われて、双方でいがみ合う必要もなくて、歩み寄った人には、歩み寄りで返すべきだということを実感したんですよ。

でも僕はずっと親不孝ばかりだったから、これからは父に誇れる自分に変わる努力を続け、いつか墓前に奥さんと子どもを連れていきます。
こんな生意気で口さえ利かない僕を大学まで通わせてもらったりして、今まで本当にありがとうございました。

当たり前の話、父さんと母さんがいなければ僕は産まれてないから、元気で健康な体に産んでくれたことに感謝し、それを店に来てくださるお客様にも返せていければと願います。

僕もそのうち逝くから、その時は大好物のスルメで一杯やろうね。
ゆっくりと休んでください。
謹んで御冥福をお祈りします。

中島保

画像:実家のアルバムから出てきた父が撮ってくれた約40年以上前の写真
真ん中が長女の道代で、右が次女の瑞穂